※当記事は2026年10月の内容です。
1 はじめに

信託に関する最重要クラスの最高裁裁判例(決定)です。これまでの裁判例では、受託者の権限を強く、広く認めてきました。教訓として、受託者の権限は絶大なので、委託者は、受託者との間に極めて強い信頼関係(信認関係)が存在する場合でなければ信託契約を締結してはならない、ということがいわれてきました。
受託者への信頼だけが受託者の暴走を防ぐ唯一の方法だったわけです。
この令和8年6月17日最高裁決定は、信託契約における受託者の権限が絶大になってしまうことがあるけれども、それが正当化されるのは信託目的に照らして合理的に必要なことが要件になる旨を説示しました。つまり、合理的に必要でない場合には、信託契約の記載にかかわらず受託者の権限は限定されることを強く示唆していると考えられます。受益者は、受託者の暴走を防ぐもう一つの「防具」を手に入れたことになります。
この裁判例は、「受託者の権限は絶大」という信託業界のこれまでの「常識」にブレーキをかける画期的な判断になりそうです。私は、この裁判例の射程距離は長く、深いものになると考えます。これまでの裁判例の評釈も見直す必要があるかもしれません。いずれにしても、実務に与える影響は大きなものになります。
この裁判例を検討するに当たり、その前提たる事実関係(経緯)は、最高裁の判断の背景を探る上でも極めて重要です。今回は、生の事実関係を中心に迫っていきます。
2 偉大なるカジノ王・K氏(父親)

カジノ王K氏は、町工場の技術者から技術力と胆力と執念で世界的なカジノ王・日本の長者番付トップへと登りつめた立志伝中の人物です。
3 長男S氏から見えた父K氏の人物像

しかしながら、その長男S氏によれば、独断専行で反対意見を聴かない、異議を唱えると排除される、自分のお気に入りの人物を役員に据えるなどの所業があり、周囲からは恐れられていました。
K氏は、ワンマンで激情型の人物として一部の間で評判になっており外国で身柄拘束されたことを複数回経験しています(複数の主要ニュースメディア報道より)。
4 信託の構想は、兄・S氏の危機感から

兄・S氏は、このまま父K氏がグループ会社の実権を握っていると、その財産を流出させたり、恣意的な人事でグループ会社の価値が毀損してしまうとの危機感を抱き、自らが香港の持株会社の実権を握り、グループ会社からK氏を追放する必要を感じていました。
長男(兄)S氏と長女(妹)D氏の株式数を合算すれば、香港の持株会社の株式割合の過半数を制することができます(43.48%+9.78%=53.26%)。弁護士に相談した上で、信託契約を用いて妹の株式を兄が「管理」することによって、株式のうち、共益権(会社の人事権・支配権)を兄が握り、妹には自益権(配当を受ける権利、売却代金を受け取る権利)を信託の受益権として残すようにすればよいとするスキームを企画しました。
ここが兄S氏の巧妙なところなのですが、父K氏から妹D氏への働きかけを予想し、信託契約条項中に妹からこの信託スキームを破壊させないような仕組みを作りました。
5 私文書での信託契約(認証なし)(とりあえず信託)

兄S氏と妹D氏は、実母を平成10年に亡くした後はメールのやり取りや会食を頻繁に行うなど緊密な関係であり、その当時、妹D氏は兄S氏を強く信頼していました。
兄S氏は、平成29年(2017年)2月頃、海外にいた妹D氏に電話をかけ、このままだとグループ会社の価値が毀損してしまう旨を話して、協力を求めたところ、妹D氏はこれを了承しました。
平成29年3月2日、帰国した妹D氏に対し、父K氏の不正行為が明らかになるとグループ会社の企業価値が毀損されるおそれがあるのでグループ会社から排除したい旨、その際、妹D氏の心理的負担が軽くなるよう株式を兄S氏に譲渡し、配当など経済的利益は引き続き受領できるようにする旨を説明しました。その時点では、妹D氏はその説明に納得していました。
妹D氏は、3月2日に私文書の信託契約書と株主間契約書に署名し、同月9日に押印しました。そのうち信託契約の内容は、
とするものでした。この信託契約書は、公証人の認証を受けていません。
私が「とりあえず信託」と呼んでいる緊急スキームです。父K氏は、5月12日に、香港の持株会社の取締役を解任されています。
6 公証人による署名認証を受けた株式管理処分信託契約

妹D氏と兄S氏は、平成29年(2017年)5月23日に都内の公証役場において、「会社の価値の毀損を防止し、利益の最大化を図る」ことを目的にした株式管理処分信託契約を作成し、これに公証人の認証を受けました。内容は、従前作成した信託契約とほとんど同じでした。
これによって、委託者(妹)D氏の信託契約書への署名が公的に確認されたことになり、受託者S氏は、その信託契約書について強い証明力を手に入れたことになります。「とりあえず信託」から「準本格信託」(公正証書そのものではないがそれに準ずる仕組み)に格上げしたものといえます。
7 父K氏の退任、手続は進むが・・・

兄S氏と妹D氏の結託により、平成29年の6月29日に父K氏は上場会社の取締役を退任することになり、8月14日には、株主名簿が妹D氏から兄S氏に書き換えられました。S氏が香港の持株会社の株式の過半数を握ることになり、グループ会社の支配権が確立されたことになります。
8月30日、特別調査委員会の報告が公表され、父K氏による会社の資産の社外流出の事実が表にでることになりました。
ところが、事態は大きく変わり始めました。そのきっかけが、父K氏からの妹D氏への働きかけがあったものと推測されますがその詳細は不明です。
8 急展開 – 妹D氏と父K氏の和解、兄S氏とは訴訟に発展

平成29年(2017年)9月14日、父K氏は、長女(妹)D 氏と和解したこと、グループ会社への復帰手続をとる方針であることを表明しました。
9月20日、妹D氏から兄S氏に対し、内容証明郵便を送付しました。内容は、香港の持株会社の株式を譲渡したことはないというものでした。兄S氏の主張と相反するもので、今まで仲が良かった兄と妹との関係が対立関係に変わった瞬間です。
その後、平成30年(2018年)にかけて、妹D氏と父K氏からは香港において兄S氏を相手に訴訟が提起されました。これに対し、兄S氏は、東京で妹D氏を相手に訴訟(前訴)を提起しました。
香港の裁判所では、信託契約で裁判管轄として東京地裁が第一審の専属的合意管轄裁判所と定められていることを理由に、妹D氏に関する訴訟手続が停止されました。そのため、東京地裁での判断が注目されていましたが、平成31年1月25日に判決がありました。
9 前訴で信託契約の有効性が確認。それでも諦めない。

平成31年1月25日の東京地裁の判決は、妹D氏の主張を全て排斥し、兄S氏の全面勝訴でした。
妹の主な主張は、この信託契約は、公序良俗違反(民法90条)というものでした。つまり、
ということを根拠にしていました。
しかし、裁判所は、いずれも信託法が予定している(信託法91条は期間30年を超える信託期間を想定している)ものであって、公序良俗に反するとはいえず、また、信託契約作成経緯に照らして妹が契約締結時に契約内容や目的を認識していたものであり有効であると判断しました。
この判決は、妹D氏が控訴・上告しましたが、令和2年7月14日の最高裁決定によって、退けられ確定しました。
妹D氏(父K氏の影響を受けている可能性大)は諦めませんでした。令和2年8月と9月に信託終了通知をし、これが拒絶されると、信託法58条4項(※)に基づき、受託者である兄S氏を解任する旨の申立てを東京地裁に提出したのです。
東京地裁も東京高裁も妹D氏の申立てを認めませんでした。すなわち、令和6年9月10日東京高裁は、妹の抗告を棄却しました。妹D氏は東京高裁に抗告許可を申し立て、同高裁の許可により、最高裁で審理されることになりました。
10 最高裁判所第三小法廷の判断

最高裁は、令和8年6月17日、東京高裁の原決定を破棄し、事件を同高裁に差し戻しました。すなわち、
と説示しました。この判断は、今まで受託者の判断は絶大であると思っていた実務に大きな衝撃を与えました。
渡辺惠理子裁判官(裁判長)は補足意見の中で、信託のきっかけとなった会社代表者の父K氏の解任は、信託終了申入れ時には既に実現していたのであって、その状況下で、兄S氏に30年にわたって過半数の議決権を行使させ続ける必要があるのかについて、契約締結の経緯や実質的な目的から合理的な必要があるのかどうかを検討するように求めています。
この決定で確定したのは、東京高裁で審理をやり直すことです。最高裁自身が信託の終了や、兄S氏の受託者としての解任を決めた訳ではありません。
本来は、信託法164条1項により、自益信託では、委託者・受益者は、いつでも信託を終了することができるはずです。
しかし、信託法164条3項は、信託行為(信託契約など)に「別段の定め」があれば、それによることになっています。そして、本件の信託契約には、「委託者兼受益者は、本件信託期間中、信託契約を解除することができないものとする」旨の定めがありました。
そのような「別段の定め」について、最高裁は、二段階の審査が必要である旨説示しています。
11 おわりに
今回は、最決令和8年6月17日について事実関係中心に学びました。前訴(東京地判平成31年1月25日)は、「信託法164条3項が明文で許すのだから解除権の制限は問題ない」と判断し、最高裁決定は、「164条3項の別段の定めには合理的必要性が要る」と限定をかけました。この対比こそ、今回のテーマである「終了できない」と書いてあっても「終了できる」かどうかの議論の原点になります。
この裁判例評釈は、数多く出るものと予想されますが、それらを踏まえて、今後の実務に与える影響を注視していかなければならないものと考えます。